2005年10月20日

ミネルバ逃げ水2-1「プロローグ」




 どういうわけか、戦艦の艦内通路に、黒い毛並みの子犬が迷い込んでいた。
「シン! おまえ、こんなところにいたのかっ」
 金髪の美少年は、あまり崩したことのない白皙の顔を崩し、その目の前の小さな生き物に向かって声を張っていた。
 それは、どこからどう見ても、食肉目イヌ科に属する犬だった。生後半年ほどの子犬である。短い毛足、全身真っ黒で、足先と腹だけが白い。なるほど、つぶらな瞳は血のように赤かった。だが、犬だ。シンではない。
 シンは黒海沿岸都市でひと悶着あったっきり、部屋に帰ってこなくなった。
 どうせまた、空き部屋のロックをヴィーノに解除させて、そこで寝泊りしているに違いない。ヴィーノはプログラムを自在に操る。犯罪行為もお手の物だ。
 すぐに淋しくなり、人肌恋しくなって帰ってくる。
 今度という今度は、こちらから折れてなるものか。状態を回復させたくば、おまえから頭を下げて懇願しろ。そうすべきだ。
 レイも、ギルバートという要素が絡んでは、そう簡単に引けない。意固地にならざるをえないのである。
 ギルに会えることを喜んで何が悪い。おまえだって、もし離れて暮らす肉親に会えるとなったら、俺のことなどすっかり忘れて、心行くまで触れ合いを満喫するだろう。
 ギル以外眼中に入らなくなって、何かそんなにおかしいか。
 俺だってギルには良い所を見せたいんだ。おまえのことを構っていられないこともある。
 俺の事情も理解しようとせずに、差し置かれるのが、おもしろくないというのは、いささか子供じみているぞ。
 と、いうのがレイの言い分だった。
 しかし、シンにはまったく通用しなかった。
 シンは、レイを完全にシャットアウトした。見事なまでにシカトした。すさまじい拒絶だった。
 いい加減、淋しくなってきていたのは、レイのほうだったのかも知れない。
「いなくなったと思ったら、俺のためにこんな姿になって戻ってきたのか」
 レイは、小刻みに震える子犬を、都合の良い解釈をしながらそっと抱き上げた。
 赤い瞳が、すがりつくようにレイを見つめてきた。
「かわいい、おまえ、やっぱりシンだな!」
 ひし、と子犬を抱きしめる。
「よし、部屋に帰るぞ、シン!」
 大人しいわんこである。鳴きもせずに、せっせとレイの顔をなめている。
 レイは、そのまま犬を部屋へ持って帰った。
 とことんまで自分をダマす腹づもりらしい。

 この一部始終は、とある女性乗組員が目撃していた。
 レイ様、ご乱心。
 その報せは、音速くらいの速さでもって、ミネルバ艦内を駆け巡ったのだった。


 
posted by 百武 晶 at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | ミネルバ逃げ水 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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